晩飯を食べ終えたら、
リビングの机に灰皿を持っていく。
それが、幼少期の俺に課されていた唯一の仕事だった。
夕食が終わると台所へ行き、
灰皿とタバコ、ライターをお盆に乗せ、
夜の「食後の一服」の準備をする。
今では到底考えられない光景だが、
昭和の名残が色濃く残る平成一桁の時代。
同年代の男なら、一度は見慣れた景色だと思う。
あの頃、家の中でどっしりと煙を燻らせていた親父の威厳も、
時代の流れには抗えなかった。
リビングから換気扇の下へ。
iQOSに変えても喫煙所は戻らず、玄関へ追いやられ、
今ではすっかりベランダの隅っこにまで押し出されている。
時代の波と、母親と、孫の圧によって、
かつての親父の居場所は小さくなっていった。
幼い頃のアルバムをめくると、
俺を抱く親父の口元には、決まってタバコが咥えられていた。
(今の時代なら間違いなく大炎上する一枚だ)
当時の俺にとって、親父の咥えるタバコはカッコよさの象徴だった。
「どんな味がするんだろう。お菓子より美味しいのかな」
タバコの匂い=親父の匂い。
煙たがられる臭いのはずなのに、俺にとってはどこか安心する、
親父を感じられる温かい記憶だった。
だが、本格的にサッカーを始めた小学生の頃、
「タバコは肺を壊す、スポーツに一番悪い」と聞いて以来、
俺は親父のタバコをあからさまに避けるようになった。
親父が換気扇の下で吸うようになったのは、
もしかしたら「息子に嫌われたくない」という
不器用な気遣いだったのかもしれない。
仕事人間だった親父にとって、
タバコと休日のパチンコだけが、数少ない人生の娯楽だったはずだ。
中学に上がり、サッカーに没頭していた俺は、
タバコとは全く無縁の生活を送っていた。
まさに「無煙」の世界だ。
街を歩けば、グレた先輩や卒業生が煙を吐いている姿をよく見かけた。
だが、部活に打ち込んでいた俺は、
どこか心の奥底で彼らを見て、冷めた目を向けていた。
「この人たちは、何かを諦めてしまった悲しい人たちなんだ」と。
当時の俺には、まだ確かな「自分の芯」があったのだと思う。
中学3年の夏。
最後の大会は呆気なく幕を閉じ、俺たちは引退を迎えた。
そんな中、共に汗を流し、
今でも俺の人生で唯一「親友」と呼べる男がいた。
筋骨隆々のガタイで、情に厚く、異常なほどの根性を持つ。
学年で唯一の、本物の不良だった。
誰もが恐れるヤンキーだったが、
不思議とそいつは、俺の言うことだけは素直に聞いてくれた。
歳の離れた姉の影響で、流行や新しいカルチャーを教えるのが得意だった俺を、
親友は面白がってくれていたのだと思う。
親友は、勉強が全くできなかった。
俺もできなかったが、比べものにならないほど突き抜けていた。
進学する気など最初から毛頭なく、
「中学を出たら、親父がやってる足場屋で働く」と決めていた。
引退後、俺も休みの日はその親友の親父の現場へ行き、
足場屋のバイトを手伝わせてもらうようになった。
親友の親父は、俺にとって「第二の親父」だ。
向こうも俺を本当の息子のように可愛がってくれた。
そしてその親父もまた、今でもリビングで紙タバコをバカバカ吸う、
本物の愛煙家だ。
そんな背中を見て育った親友だ。
部活を引退し、進学もしないとなれば、
彼がタバコを吸い始めるのは至極自然な流れだった。
放課後、俺たちの溜まり場は親友が住む団地の集会所だった。
ある日、親友は制服の内ポケットからおもむろにタバコを取り出し、
慣れた手つきで火をつけた。
周りの連中が「おぉ……!」とざわめく中、
俺は「あの親父の息子だしな」と、妙に納得していた。
「みんな吸うか?」
差し出されたタバコに、周りの奴らは我先にと手を出した。
高校でも部活を続けると言っていた奴ら、進学校へ行くと言っていた奴らだ。
俺は首を振って断った。
手を伸ばした同級生たちを見て、俺はまた思った。
「こいつらも、流されていく悲しい奴らだな」と。
だが不思議と、親友に対してだけはそんな感情は湧かなかった。
昔から「中学を出たら親父と働く」と言い切り、
自分の足で生きる覚悟を決めている男。
彼は彼なりに、親父の背中をまっすぐに追っていただけなのだ。
(現に彼はその後、設備会社を立ち上げ、今でも親父を雇って共に現場に出ている。心から尊敬している)
……そうやって、他人の見栄を冷ややかに見つめていたはずの俺。
だが、高校受験に失敗し、
あの「底辺ヤンキー高校」の門をくぐったことで、
俺の薄っぺらいプライドは、あっという間に崩壊していくことになる。
高校へ入学して間もない頃。
少しずつグループができ始め、水面下でカースト争いが繰り広げられる中、
俺の部屋に4人ほどの新しい同級生が遊びに来た。
部屋に案内するなり、一人が平然と聞いてきた。
「ここ、タバコ吸っていい?」
舐められたくない。
ダサい奴だと思われたくない。
その場に居合わせた瞬間、俺の浅ましい見栄っ張りが最悪の形で発動した。
「あ、全然いいよ! 俺も吸うし」
大嘘をつきながら、慌てて窓を全開にした。
「じゃあ吸わせてもらうわ。……あれ、お前は吸わないの?」
友人の鋭いツッコミに、心臓が跳ね上がる。
「あぁ、ちょうど切らしててさ……」
苦し紛れの言い訳を口にした瞬間、
友人はポケットから箱を出し、1本差し出してきた。
「やるよ、吸いなよ」
引くに引けなくなった。
俺は震える指先で、差し出されたタバコを受け取った。
カチッ、とライターの火をつける。
吸いながら火を近づけないと着かない。
最初の一吸い目はライターのガスが混じるから、肺に入れずに吐き出す。
中学時代、親友たちが吸っている姿を観察して頭に叩き込んでいた情報が、
こんな最悪の場面で役に立つとは思わなかった。
口いっぱいに広がる、煙。
一旦それを外へ吐き出すと、頼りない煙が宙に漂った。
舌の上に残る、強烈な苦味とエグみ。
(……こんな味なのか? 何が美味いんだこれ……?)
激しい違和感を覚えながらも、俺は必死にポーカーフェイスを保った。
問題は、その次だ。
「肺に入れる」という行為。
ここでむせたら、一瞬で「高校デビューの素人」だとバレて終わる。
親友の吸い方を脳内で再生し、
口に溜めた煙を、喉の奥、ゆっくりと肺の底へと落とし込む。
──ゴホッ、と込み上げてくる強烈な咳を、
喉の筋肉を限界まで引き絞って、力づくで胃の底へ押し戻した。
そして、窓の外へ静かに白い煙を吐き出しながら、
俺は平然とした顔で、こう言い放ったのだ。
「……あぁ〜、うめぇ。」
大嘘だった。
ちっとも美味しくなんかなかった。
30代後半になった今でも、この瞬間を思い出すと
顔から火が出るほど恥ずかしくなり、
当時の自分の胸ぐらを掴んで殴り飛ばしたくなる。
(※ちなみに、俺は今に至るまでタバコを「美味い」と思ったことは一度もない。美味いのではない、ただの習慣と落ち着きだ)
「灰皿ないから、外に灰落として!」と誤魔化し、
飲み干したばかりの缶ジュースに水を入れ、即席の灰皿を作った。
タバコの匂いで満たされた俺の部屋から、友人たちが帰っていった。
部屋に残されたのは、充満するヤニの臭いと、
カーテンの裏の窓枠に、友人が「切らしてるなら」と置いていってくれた
数本のタバコとライターだった。
(後編へ続く)

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