逃げるは楽だが己を無くす【第4話】後半

Uncategorized

友人たちが帰り、夕食と風呂を済ませて自室に戻った。

部屋の窓枠に置かれた、友人からの「置き土産」。

数本のタバコと、安っぽい使い捨てライター。

不思議な高揚感と好奇心に抗えず、俺は暗い部屋でそれに手を伸ばした。

窓を開け、夜風を浴びながら、

まだぎこちない手つきで火をつけ、夜空へ向けて煙を吐き出す。

ふと見ると、向かいの家の窓が開いた。

幼馴染の部屋だった。

彼も中学まで一緒にサッカーで汗を流し、

頭のいい、サッカーの強豪高校へ進学したばかりだった。

煙を吐く俺に気づいた幼馴染が、目を丸くして声をかけてきた。

「……お前、タバコ吸い始めたの?」

「あぁ。前から吸ってたよ」

ここでも、反射的に嘘が出た。

「やっぱりな、吸うと思ってたわ」

見透かされたような物言いに少しイラつき、

焦った俺は、無意識にこう口走っていた。

「お前も……吸うか?」

返ってきた言葉は、氷のように冷たかった。

「俺は要らない。部活もやってるし、そもそも興味ないから」

頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

幼馴染の姿の向こうに、かつての自分が透けて見えた。

中学の頃、部活引退後にタバコに手を出した同級生たちを見て、

「何かを諦めた悲しい奴らだ」と見下していた、あの日の自分。

今、俺はそっくりそのまま、

幼馴染から「悲しい奴」として見下されているのだ。

「……不良になったんだね」

幼馴染がぽつりと言った。

当時の俺はどこか誇らしい気恥ずかしさを感じていたが、

あれは間違いなく、哀れみと皮肉だった。

窓がピシャリと閉まる。

部屋に残ったタバコの匂いと、幼馴染の放った言葉が、

いつまでも俺の周りに重たく漂っていた。

気付けば俺は、自分から進んで「あちら側」へ足を踏み入れていたのだ。

翌朝、俺は通学路の自販機で、

昨日吸わされたのと同じ銘柄のタバコを買った。

(当時は今の半額以下の値段で、自販機で誰でも買えた時代だ)

昨日の友人に「これ、昨日の分」と数本返し、

学校帰りに友人の家で吸うのが、あっという間に日常になっていった。

最初は窓から身を乗り出してコソコソ吸っていた自室でも、

次第に気が緩み、部屋の中で堂々と吸うようになっていた。

その瞬間は、突然やってきた。

ガチャリと部屋のドアが開き、母親が入ってきた。

「今日、晩飯どうす……」

俺の口元には、火のついたタバコ。

「あんた、何それ?」

固まる母親に、俺は精一杯の虚勢を張って言い返した。

「見ればわかるじゃん」

母親は不敵な笑みを浮かべ、何も言わずに階段を降りていった。

夕飯時、リビングへ向かう足取りは鉛のように重かった。

心臓がバクバクと音を立てる。

親父にバレたら何を言われるか分からない。

だが、夕飯の席では誰もタバコの話に触れなかった。

(その頃には、親父に灰皿を持っていく俺の役目はすっかり無くなっていた)

風呂から上がると、居間にいた親父が、

少し小馬鹿にしたような、けれどどこか寂しそうな目で俺を見た。

「お前、タバコ吸ってんだってな」

その声の奥に、ほんの少しの悲しみと、

「息子が少しだけ大人になった」という複雑な感情が混ざっているように思えた。

「別にいいじゃん」

照れと気まずさで目を合わせられず、俺は二階の自室へ逃げ帰った。

その後、親父から言われたのはたった2つだけだった。

「火の元だけは絶対に気をつけろ」

「家の外では吸うな」

それから数ヶ月が経った、ある朝のこと。

学校へ行く前の「朝の一服」をしようと、

自室に戻るのが面倒になった俺は、

今の親父の定位置だったキッチンの換気扇の下へ向かった。

換気扇を回し、親父の真似をして煙を吐き出す。

呆れ顔の母親を無視して煙を燻らせていると、

起きてきた親父が、目覚めの一服をしにキッチンへやってきた。

換気扇の下で煙草を咥える俺を見るなり、親父は言った。

「……生意気な!」

そう言って、俺のケツを右膝で軽くポンと蹴り飛ばした。

親父にタバコを吸う姿を直接見られた、猛烈な恥ずかしさ。

けれど、どこか男として認められたような、くすぐったい感覚。

時代が変わり、親父も丸くなった今となっては、

もう二度と味わえない、愛おしくて寂しい時間だ。

タバコが当たり前になった高校生活。

一日一箱を消費するようになり、バイト代の大半は煙となって消えていった。

給料日前の極貧期、俺はパチンコの景品でタバコをカートン買いしている親父の部屋を漁り、

ストックから数箱くすねるという技で飢えを凌いでいた。

一方、高校へ行かず現場で汗を流していた親友とは、

環境が変わり、しばらく会う頻度が減っていた。

仕事が落ち着いた頃、久しぶりに再会した親友の前で、

俺は何気なくポケットからタバコを取り出して火をつけた。

その時、親友が見せた寂しそうな顔が、今でも忘れられない。

進学し、新しい仲間と派手なバイクに乗り、

すっかり「高校デビュー」に染まってしまった俺。

お互いの距離が少し離れてしまったことに、

あいつなりの寂しさや嫉妬があったのだと思う。

一度は大喧嘩をして激しくぶつかり合ったが、

本音をぶつけ合ったことで、俺たちの絆はより深いものになった。

見栄のために旧車會に入り、オロオロと免罪符を探していた俺とは違い、

親友はド派手な単車に跨りながら、どこにも属さず、免許も持たず、

絡んでくる奴は力づくでねじ伏せていた。

俺は、あいつが喧嘩で負ける姿を一度も見たことがない。

その後、俺が人生の節目節目で愚かな問題を起こして逃げ回るたび、

そのケツを拭いてくれたのは、いつも親友であり、親友の親父だった。

夜職絡みのトラブルで追われ、行く当てを失った時も、

親友の親父は理由一つ聞かず、数週間にわたって自宅に匿ってくれた。

職を失って食い詰めた時は、現場の仕事を回してくれた。

「親父さんが亡くなったら、俺は葬式に絶対にド派手なネクタイをしていくからな」

俺はすでに親友にそう伝えてある。

それは昔、俺たちが成人した時、親友の親父が俺にプレゼントしてくれた、

あのド派手な一本のネクタイだ。

あれから20年以上。

俺の人生には、常にタバコの煙がまとわりついていた。

完全禁煙の厳しい職場。

タバコを奢らせてばかりの理不尽な先輩。

売上が立つまで吸うことすら許されなかったホスト時代。

職を転々とするたび、その灰皿の数だけ情けない思い出がある。

一人暮らしを始めてからは、部屋の匂いを気にしてiQOSを吸うようになった。

お笑い芸人の大悟が「紙タバコには哀愁がある」と言っていたが、本当にその通りだと思う。

俺の脳裏に焼き付いているのは、電子タバコではなく、

無骨に煙を吐き出していたあの頃の親父の背中だ。

今は基本がiQOSだが、それでも俺は紙タバコをやめられない。

けれど今、同居している姪っ子は紙タバコの匂いを激しく嫌う。

庭で吸おうが、身体に染み付いた匂いは誤魔化せない。

だから俺は、日課のウォーキングの時だけ、

スマホ、イヤホン、ライター、そして紙タバコを1本だけポケットに忍ばせる。

目指すのは、コースの中で一番遠くにある、片道1時間半もかかる喫煙所。

そこで夜風を浴びながら、たった1本の紙タバコに火をつけ、

深く煙を吸い込んで、また1時間半かけて歩いて帰るのだ。

(姪っ子には完全な秘密である)

今のところ、タバコを辞める気は全くない。

禁煙に挑戦したこともないし、考えたこともない。

ただ、時代に合わせて、誰の迷惑にもならない場所を探しながら、

細々と煙を吐き出し続けている。

……こんなにタバコのことを語っていたら、

また無性に一本吸いたくなってきた。

今日のところは、ここらで失礼。

コメント

タイトルとURLをコピーしました