友人たちが帰り、夕食と風呂を済ませて自室に戻った。
部屋の窓枠に置かれた、友人からの「置き土産」。
数本のタバコと、安っぽい使い捨てライター。
不思議な高揚感と好奇心に抗えず、俺は暗い部屋でそれに手を伸ばした。
窓を開け、夜風を浴びながら、
まだぎこちない手つきで火をつけ、夜空へ向けて煙を吐き出す。
ふと見ると、向かいの家の窓が開いた。
幼馴染の部屋だった。
彼も中学まで一緒にサッカーで汗を流し、
頭のいい、サッカーの強豪高校へ進学したばかりだった。
煙を吐く俺に気づいた幼馴染が、目を丸くして声をかけてきた。
「……お前、タバコ吸い始めたの?」
「あぁ。前から吸ってたよ」
ここでも、反射的に嘘が出た。
「やっぱりな、吸うと思ってたわ」
見透かされたような物言いに少しイラつき、
焦った俺は、無意識にこう口走っていた。
「お前も……吸うか?」
返ってきた言葉は、氷のように冷たかった。
「俺は要らない。部活もやってるし、そもそも興味ないから」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
幼馴染の姿の向こうに、かつての自分が透けて見えた。
中学の頃、部活引退後にタバコに手を出した同級生たちを見て、
「何かを諦めた悲しい奴らだ」と見下していた、あの日の自分。
今、俺はそっくりそのまま、
幼馴染から「悲しい奴」として見下されているのだ。
「……不良になったんだね」
幼馴染がぽつりと言った。
当時の俺はどこか誇らしい気恥ずかしさを感じていたが、
あれは間違いなく、哀れみと皮肉だった。
窓がピシャリと閉まる。
部屋に残ったタバコの匂いと、幼馴染の放った言葉が、
いつまでも俺の周りに重たく漂っていた。
気付けば俺は、自分から進んで「あちら側」へ足を踏み入れていたのだ。
翌朝、俺は通学路の自販機で、
昨日吸わされたのと同じ銘柄のタバコを買った。
(当時は今の半額以下の値段で、自販機で誰でも買えた時代だ)
昨日の友人に「これ、昨日の分」と数本返し、
学校帰りに友人の家で吸うのが、あっという間に日常になっていった。
最初は窓から身を乗り出してコソコソ吸っていた自室でも、
次第に気が緩み、部屋の中で堂々と吸うようになっていた。
その瞬間は、突然やってきた。
ガチャリと部屋のドアが開き、母親が入ってきた。
「今日、晩飯どうす……」
俺の口元には、火のついたタバコ。
「あんた、何それ?」
固まる母親に、俺は精一杯の虚勢を張って言い返した。
「見ればわかるじゃん」
母親は不敵な笑みを浮かべ、何も言わずに階段を降りていった。
夕飯時、リビングへ向かう足取りは鉛のように重かった。
心臓がバクバクと音を立てる。
親父にバレたら何を言われるか分からない。
だが、夕飯の席では誰もタバコの話に触れなかった。
(その頃には、親父に灰皿を持っていく俺の役目はすっかり無くなっていた)
風呂から上がると、居間にいた親父が、
少し小馬鹿にしたような、けれどどこか寂しそうな目で俺を見た。
「お前、タバコ吸ってんだってな」
その声の奥に、ほんの少しの悲しみと、
「息子が少しだけ大人になった」という複雑な感情が混ざっているように思えた。
「別にいいじゃん」
照れと気まずさで目を合わせられず、俺は二階の自室へ逃げ帰った。
その後、親父から言われたのはたった2つだけだった。
「火の元だけは絶対に気をつけろ」
「家の外では吸うな」
それから数ヶ月が経った、ある朝のこと。
学校へ行く前の「朝の一服」をしようと、
自室に戻るのが面倒になった俺は、
今の親父の定位置だったキッチンの換気扇の下へ向かった。
換気扇を回し、親父の真似をして煙を吐き出す。
呆れ顔の母親を無視して煙を燻らせていると、
起きてきた親父が、目覚めの一服をしにキッチンへやってきた。
換気扇の下で煙草を咥える俺を見るなり、親父は言った。
「……生意気な!」
そう言って、俺のケツを右膝で軽くポンと蹴り飛ばした。
親父にタバコを吸う姿を直接見られた、猛烈な恥ずかしさ。
けれど、どこか男として認められたような、くすぐったい感覚。
時代が変わり、親父も丸くなった今となっては、
もう二度と味わえない、愛おしくて寂しい時間だ。
タバコが当たり前になった高校生活。
一日一箱を消費するようになり、バイト代の大半は煙となって消えていった。
給料日前の極貧期、俺はパチンコの景品でタバコをカートン買いしている親父の部屋を漁り、
ストックから数箱くすねるという技で飢えを凌いでいた。
一方、高校へ行かず現場で汗を流していた親友とは、
環境が変わり、しばらく会う頻度が減っていた。
仕事が落ち着いた頃、久しぶりに再会した親友の前で、
俺は何気なくポケットからタバコを取り出して火をつけた。
その時、親友が見せた寂しそうな顔が、今でも忘れられない。
進学し、新しい仲間と派手なバイクに乗り、
すっかり「高校デビュー」に染まってしまった俺。
お互いの距離が少し離れてしまったことに、
あいつなりの寂しさや嫉妬があったのだと思う。
一度は大喧嘩をして激しくぶつかり合ったが、
本音をぶつけ合ったことで、俺たちの絆はより深いものになった。
見栄のために旧車會に入り、オロオロと免罪符を探していた俺とは違い、
親友はド派手な単車に跨りながら、どこにも属さず、免許も持たず、
絡んでくる奴は力づくでねじ伏せていた。
俺は、あいつが喧嘩で負ける姿を一度も見たことがない。
その後、俺が人生の節目節目で愚かな問題を起こして逃げ回るたび、
そのケツを拭いてくれたのは、いつも親友であり、親友の親父だった。
夜職絡みのトラブルで追われ、行く当てを失った時も、
親友の親父は理由一つ聞かず、数週間にわたって自宅に匿ってくれた。
職を失って食い詰めた時は、現場の仕事を回してくれた。
「親父さんが亡くなったら、俺は葬式に絶対にド派手なネクタイをしていくからな」
俺はすでに親友にそう伝えてある。
それは昔、俺たちが成人した時、親友の親父が俺にプレゼントしてくれた、
あのド派手な一本のネクタイだ。
あれから20年以上。
俺の人生には、常にタバコの煙がまとわりついていた。
完全禁煙の厳しい職場。
タバコを奢らせてばかりの理不尽な先輩。
売上が立つまで吸うことすら許されなかったホスト時代。
職を転々とするたび、その灰皿の数だけ情けない思い出がある。
一人暮らしを始めてからは、部屋の匂いを気にしてiQOSを吸うようになった。
お笑い芸人の大悟が「紙タバコには哀愁がある」と言っていたが、本当にその通りだと思う。
俺の脳裏に焼き付いているのは、電子タバコではなく、
無骨に煙を吐き出していたあの頃の親父の背中だ。
今は基本がiQOSだが、それでも俺は紙タバコをやめられない。
けれど今、同居している姪っ子は紙タバコの匂いを激しく嫌う。
庭で吸おうが、身体に染み付いた匂いは誤魔化せない。
だから俺は、日課のウォーキングの時だけ、
スマホ、イヤホン、ライター、そして紙タバコを1本だけポケットに忍ばせる。
目指すのは、コースの中で一番遠くにある、片道1時間半もかかる喫煙所。
そこで夜風を浴びながら、たった1本の紙タバコに火をつけ、
深く煙を吸い込んで、また1時間半かけて歩いて帰るのだ。
(姪っ子には完全な秘密である)
今のところ、タバコを辞める気は全くない。
禁煙に挑戦したこともないし、考えたこともない。
ただ、時代に合わせて、誰の迷惑にもならない場所を探しながら、
細々と煙を吐き出し続けている。
……こんなにタバコのことを語っていたら、
また無性に一本吸いたくなってきた。
今日のところは、ここらで失礼。

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